仙川ポータル

愛犬と過ごす世田谷と調布の境の街「仙川」。仙川周辺をブラブラ見つけたものや気になったものを紹介しています

下仙川 高射砲陣地跡 - 仙川周辺の史跡

仙川は関東大震災による災害や第二次世界大戦時の大規模な空襲を免れています。もっとも戦前は田んぼや畑の多い地区だったので狙われにくかったのかもしれません。調布では主に陸軍が使用していた飛行場であった東京調布飛行場(現・東京都調布飛行場)の周辺の地区は空襲による被害が大きかったようです。

筆者の実家があった大阪・岸和田も同じように直接的な空襲はありませんでしたが、神戸大空襲、大阪大空襲、堺大空襲の行きと帰りに爆弾が投下されたのが記録されています。

瓦礫の山からの復興で大きな区画整備が行われず仙川駅周辺の再開発まで昔の面影を残していたようです。仙川駅前周辺は都市計画に基づいて綺麗に整備されていますが、仙川駅から少し離れると明らかに歪な土地の建物が多いです。田畑から住宅地への転換によるものだと考えています。これに関してはまた機会があれば記事を書きたいと思います。

第二次世界大戦末期の仙川であった空襲、伝単の記録

前述したとおり、一般的にイメージする空襲そのものはありませんでしたが、都心や東京調布飛行場に近い仙川でも爆弾の投下や戦闘機による機銃掃射がおこなわれました。

1945年2月17日

2月16,17日は調布飛行場とその周辺に対する空襲が集中しておこなわれた日です。

1945年2月17日に神代村下仙川六〇七番地あたりに爆弾が投下されて炸裂、防空壕に生き埋めにされるも奥の方に逃げていて奇跡的に無事で助かったようです。みんな新聞社発行の「調布市域の空襲と敗戦 空襲記録検証編[I]」によると被害は下記の通りでした。爆弾は斎藤宅と伊藤宅の間あたりに落下したという。

  • 斎藤宅(通称・鍋屋) =下仙川六〇七番地(現・仙川町3丁目2)
    • 物置爆弾落下全壊 母屋半壊
  • 伊藤宅 =下仙川六〇七番地(現・仙川町3丁目2)
    • 全壊か半壊かは不明
  • 田辺宅 =下仙川六〇七番地(現・仙川町3丁目2)
    • 全壊または半壊

毎日新聞(ウェブ版)に当時の体験談が記事が掲載されていました。

終戦半年前の1945年2月17日、現在の調布市仙川町3で、民家を空襲が襲った。爆弾が破裂し、身重の1人を含む女性3人が一時、防空壕(ごう)に生き埋めになった。3人は警防団員に救出され、身重の女性からは2カ月後に男児が生まれた。現在も同市在住の斉藤常一さん(70)だ。斉藤家では「爆弾記念日」と名付けて約半世紀の間、2月17日に赤飯を炊いて無事を祝い、命の尊さをかみしめていた。

戦後70年:調布仙川空襲 防空壕で助かった命 斉藤家、2月17日は無事祝う /東京 - 毎日新聞

斎藤宅は甲州街道に面していて、道路の向かい側には第13消防団の詰所*1がありました。斎藤ミヨさん、その母の斎藤トリさん、お手伝いさんの3人は、生き埋めにされるも防空壕と潰れた屋根の間にできた空間のおかげで潰されずにすみ、目の前に消防団の詰所があったため迅速な救助で助かりました。

当日は、滝坂国民学校前にも爆弾が投下されました。具体的に書くと線路を挟んだ南側の清水丈世宅(現・東つつじヶ丘2丁目17)の敷地にも250キロ爆弾が投下されました。爆風で土砂が線路を覆ってしまい京王線が一時的に不通になってしまったようです。土砂はすぐに取り除かれて復旧しました。

(2016/5/1 追記)「せんがわ21 せんがわ界隈史」では滝坂国民学校前(字滝坂の内田龍吉所有地。現・東つつじヶ丘1丁目)の踏切に爆弾が投下されたと書かれておりました。京王線が一時不通と書かれているので、踏切近くの滝坂国民学校前の方が正しいような気がします。しかし上記の「毎日新聞(ウェブ版)」には調布市仙川町3の民家に爆弾が投下されたと書かれていました。

東つつじヶ丘1丁目と仙川町3丁目とは近いと言っても、爆風の影響を受けるほど近くはありません。どちらも信憑性がありどちらが真実なのか気になっていました。

みんな新聞社発行の「調布市域の空襲と敗戦 空襲記録検証編[I]」を参考にすると、滝坂国民学校前にも現在の調布市仙川町3丁目にも爆弾が投下されたことが分かったため、本記事を一部訂正・追記いたしました。

1945年6月11日

もうひとつは1945年6月11日11時〜12時半にかけてP51を主力とする数十機の編隊が、神代高等女学校(現・東京都立神代高等学校)の上空を通過し、うち2,3機が急降下機銃掃射がおこなわれました。被害はありませんでした。

1945年4月7日

最後に「仙川の空襲」ではありませんが、1945年4月7日に飛燕に体当たりされたとか高射砲で撃たれたと諸説あり原因は不明ですがB29が撃墜されます。

第878飛行戦隊の報告、飛燕を操縦していた古波津里英氏の体験記からは「飛燕の体当たり」が原因、第875爆撃戦隊のジェームズ・D・ラウダー軍曹の「行方不明搭乗員報告書」での報告からは「高射砲の直撃」が原因のように思えます。いずれにせよ一瞬のことだったと思います。

墜落したB29の機体本体部分は国領の民家に落ちて8人が死亡。機体の一部が仙川の菊池邸(山水高等女学校の隣)の防空壕から10m離れた場所に落ちますが一家皆無事だったようです。*2

(回数は少ないですが)田畑しかない仙川に対して爆弾投下と機銃掃射があったのは、国分寺崖線に設営された下仙川高射砲陣地の存在が影響しているかもしれません。

昭和21年の航空写真から高射砲陣地の位置を調べてみました

下図は1946年(昭和21年)に米軍によって撮影された写真ですが、下仙川高射砲陣地跡を赤枠で囲っています。場所的には東京アルミニュームの工場(現・仙川キユーポート)の南側になります。

さすがに戦後の連合国軍占領中の時期のことなので武装解除されており高射砲自体を確認することはできませんが、6つの丸いコンクリート製の台座がくっきりと残っているのがわかるでしょうか。

米軍はこの場所を狙って攻撃するつもりが誤り*3、前述した「滝坂国民学校前の爆弾投下」と「神代高等女学校周辺への機銃掃射」に繋がるのではないでしょうか。

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高射砲陣地と聞くと小規模なものを想像してしまいます。

距離感を掴みやすいように周辺のポイントとなる地点に説明をつけてました。仙川駅から山水女子高等学校(現・桐朋学園大学音楽部)までの距離でだいたい想像していただきたいのですが、下仙川高射砲陣地はかなり大きいです。

6門ある高射砲の台座部分に青色のマークをつけてマッピングしてみました*4。当時は見事に田畑の真ん中に位置しています。

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これを現在のグーグルマップと重ねてみました。甲州街道、京王線、都道118号*5はそのまま残っているので案外簡単にマッピングすることができました。

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2つの地図を重ねてみました。確認できた

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この写真を見てようやく場所が理解できましたのでさっそく行ってみました。ひとつめは若葉台自治会地図の看板の台座になっていました(上の地図①)。

あらかじめネットで調べていて写真を見ていたものの「単に看板を立てるための台座なのではないか?」と考えていましたが、航空写真の一番北側の高射砲砲座の位置と符号しました。

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もうひとつは私有地のため中に入れませんでしたが駐車場の奥に弾薬庫跡と言われているコールタール塗りの壁が見えます。

実際に近くで見てないのでなんとも言えないのですが、弾薬庫跡なのか砲座跡なのか確認することはできませんでした。場所的には北側から3番目の高射砲砲座の位置(上の地図②)と符号します。

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筆者は高射砲の砲台の一部が現存していると知って、何度か犬の散歩がてら探していたのですが見つかりませんでした。今回昔の写真を元に現在の地図と重ねてようやく高射砲陣地跡の場所を特定することができました。現在は上記の砲座の一部を除き、跡形もなく住宅地に飲み込まれてしまっています。

*1:現・すし屋 銀蔵 仙川店のあたり

*2:2008年4月27日に国領で不発弾が発見され、2008年5月18日に不発弾の撤去が行われました。この不発弾が撃墜されたB29に搭載されていた1t爆弾のものではないか?と言われているようですが情報の裏取りはできていません 不発弾撤去の陸上自衛隊に市長が感謝状贈呈 | 調布市

*3:誤ってかどうかについては推測によるところですが

*4:位置を合わせる用に仙川駅横の橋と仙川2丁目の交差点も印をつけています

*5:仙川では南街道と呼ばれていたようです